南濱墓地 墓石調査 Bブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。



a   墓の前に置くべき花立が片方だけポツンとありました。
   大正以前は後ろ側フェンスの向こうまで墓地だったので、そこにあったものでしょうか。
   おおきな文字で「たる」とあります。多分樽屋さんだったのでしょう。


B-2  右側の墓  正面には  延宝七己未年(1679)
                   安誉元阿彌法子
                   四月廿日
         右側面には   基昌庵室三十八世
         左側面には   浄安建之
   見つけた中で3番目に古いもので 335年前になります。
   法子という言葉は僧侶につけます。またネギ坊主のような竿石もまた僧侶にしか用いません。
   私は古さよりも足元の石の彫刻に目がいきました。蓮の花ですが、上下逆に見えますがこれで正しいようです。

B-3  左側の墓  正面には     安永2年(1773)
                願誉悦阿彌昌源法子
                  正月5日
         右側面には  基昌庵室四十三世  とありました。
                大変長く続いたこの寺の情報がまったく見つからないのです。
                (Google検索・国会図書館・公文書館・大阪市立図書館・奈良県立図書館)
                B-2からB-3まで94年あり、その間に庵主は5代あるので、1代あたり19年になります。
                初代を逆算すると43x19=817年、1773-817=西暦956年(天暦10)なので、平安時代中期にあたります。
                日本最古の禅寺は京都東山の建仁寺で創建は建仁2年(1202)なので、それよりはるかに古いことになります。
                基昌庵は最初は密教系の寺だったのがいつか禅宗に変わったのでしょうか?
                大阪にある古い寺の宗派と創建年代を並べると
                    四天王寺 無派閥        推古元年(593)
                    太融寺  真言宗        弘仁12年(821)
                    南御堂  浄土真宗大谷派  文禄4年(1595)
                    北御堂  浄土真宗本願寺派 明応5年(1496)
                    三津寺  真言宗御室派    天平16年(744)
                    大念佛寺 融通念仏宗     大治2年(1127)
                    源光寺  浄土宗→融通念仏宗→浄土宗 天平19年(747)
                2つの本願寺は新しいので除外。四天王寺の塔頭が後に禅寺になるとは思えないので除外。
                同じ理由で大念仏寺も除外。残ったのは偶然にも真言宗の寺2つ。
                南濱からの距離を考えると太融寺か源光寺の塔頭だったかも?
                1000年続いた寺が全く無名のままだったとは思えないのですが、現時点では「謎の禅寺」です。
         この台座の下にも蓮華座があります。
2023/1/25 追記
   禅寺というのは私の思い込みで、正しくは浄土宗寺院が正しいそうです。
   偶然にお世話になった禅文化研究所に問い合わせると
      法名のつけ方が禅宗ではなく浄土宗だとのこと。    さらに浄土宗総合研究所を紹介していただきました。
   浄土宗であれば、第1候補は墓地近くの源光寺なのです。
   問題は源光寺が第2次大戦の爆撃で焼けてしまったことです。
   直接に尋ねてもわからないだろうなあ・・・

B-1  右側に寄り掛かる墓石には 光誉利雲妙貞禅定尼霊  寛政元巳酉年(1789)閏・・ とあります。
   この年の閏月は6月、現在の7月にあたります。
   大変立派な戒名の尼さんです。僧は俗世間を離れているので死んでも実家の墓に入ることはありません。


B-4  太い文字で(でも剥落して消えかかって)大定先生と読めます。
   近畿墓跡考. 大阪の部によると 大定だいじょう先生之墓 だそうです。
      所在 南濱墓地に在り。域内中央にありて西面す。上月専庵の撰文を刻む。門弟子の建つる所なり。
                 西面はしているのですが、墓地中央ではありません。移されたのです。
                 墓跡考は大正11年出版で、墓地南側の道路(当時は阪神電鉄北大阪線)は大正3年に開業しており
                 墓跡考が書かれたときには墓地の境界はほぼ現状の通りだったでしょう。
      刻文 大定所士。諱命常。稱十蔵。号文龍。實徳斎山本先生之弟。而兎原郡山路荘五百崎人也。
         其為人恬稽上覇。清介絶俗。赤貧自安。自幼学書。百玩好皆廃。夜以継日。孜々上輟。於書法有通得。
         雖臥即披襟画腹。其刻苦精研。至乎筆之為塚。墨之成池。後傳異邦人孟魯所法於羽州人。爾後筆術大進。
         揮筆則龍走。落紙則蛇虫番。受業者満其門。莫貴莫賤。莫少莫長。諄々焉導之。名声籍甚云。
         娶某氏。生
一女。所士以元文丁巳八月廿一日。以疾卒干寝。年五十有二。葬浪華郊北濱之墓。          門人乞余言而勒石。銘曰
            飄揚心画  湛以換鵞
            天上假歳  噫如命何      上月専
庵謹
         元文丁巳冬十一月          摂陽諸門人謹建

        (水色部分は剥落してしまいました)

      国会図書館の「浪華人物誌  巻1」には上記碑文の抜粋があります。


B-5  右の墓石の「釈」は随分深く刻まれているのに、それでも風化・剥落が激しいです。
   裏面には安永5年(1776)の建立とあります。
      正面には  妙本・教誓・宗圓・宗順・妙林
            妙勇・妙生・遊聖・圓清・遊玄
      左側面には 玄導・恵証・宗真      と合計13人の名前があります。
   昔の漢字の特徴がわかりやすく現れています。
      宗圓  圓は円の古い字体
      妙夲  夲は本の別字体
      遊玄と今なら書くのですが、中央の遊聖の遊とは配置が違います。並べ替えはよく見られます。
      圓清  墓石には氵に青ではない似た文字があります。これも別字体なのです。
   この写真には写っていないのですが、台座には   高田(屋?) 藤兵(衛?)とあります。
   左側の墓石の台座にも同じ高田とあります。

B-6  左側は一段と無残です。斜めにスッパリと切断されているのです。なぜ?
   夫婦墓のように見えるのですが、まるで首を切るように上半分をチョン切っています。
   石材として再利用するなら、下半分を再び立てることはしないでしょう。
   葬られているのは夫婦ではなく男と妾、残された妻が怨念を爆発させた? う~~ん コワイ・・・
       だったらオモシロイですが
       切断しても割っても痕跡が残るのですが、何も見えません。
   2014/11/7 追記  墓地の奥にも同様にスッパリ切れた墓がありました。
            誰かが切ったのではなく、自然に割れたようです。
            多くの石には「石目」という木目に似てそこから割れやすい面があります。
            ちゃんとした石屋ならそれを読んで石目を避けるのですが、運悪く当たってしまったようです。
            割れて落ちた石は一体どこに?


B-7  手のこんだ彫刻をするために柔らかい砂岩を使ったのが仇となり、風化が進みました。
   正面には「鑾江らんこう斉藤先生墓・とあります。何を教えていたのでしょうか、門弟が建てたのです。
   笠石が大きすぎてバランスが悪いのは、門弟からの意趣返しでしょうか。(考えすぎ?)
   興味のある方は碑文を読みに行って下さいな。

   大正11年発行「近畿墓跡考 大阪の部」にこの墓の紹介がありました。
       所在 西成郡豊崎町字南濱濱村墓地にあり。墓域西南塀側北より四五基目にありて
                                場所が当時と変わっています
          西面す。野田逸の撰文和田幸栄の書を刻む。題表の文字は篠崎小竹なり。
       形式 ・・・略
       刻文 鑾江斉藤先生墓(正面)
          鑾江斉藤先生墓碑銘。丹後野田逸撰。浪華篠崎弼題表。
          浪華故人安藤維義。傳鑾江先生之訃。共致其臨終之言曰。上刋之圖。
          子明嘗計我。當上負於身後也。嗚呼余之於先生也。未冠而辱忘年交。
                    略
          嘉永元年戌申復月  門人 浪華和田孝榮書(右背左三面)
       略傳 名は象。字は世教。号は鑾江。 阿波徳島の人。
          嘉永元年8月13日没。 年64。
          意外な経歴なので紹介します
          鑾江、家世商たり。・・・初め那波紊川に学びしが年25、郷国阿波を
          出でて東都に至り昌平校に入りて古賀精里・侗庵に師事す。
          甚だその知を得溢自ら勉励し大に儕輩に朊せらる。既にして兄の訃に接し
          郷に帰る。時に家道甚だ艱み負債3000、而も姪尚幼なり。鑾江及ち姪を
          助けて家政を理むる者十余年悉く債を払ひ家政を姪に還して去って
          大阪に出で儒を業とす。・・・ 略


B-9  中央の大きな墓には「冬霜円覚禅定門 八?」とありますが
      右側面には 寛政5年(1793)建之 施主 朝嵐喜八
      この人物は相撲取りではないかとニラんだのですが、見つかりません。偶然そのような苗字だったのでしょうか。
      左側面には6吊の名前が
         涼岳浄晴信士・法林清閑信女 六三郎・おべん・おとよ・嘉助
                        なぜこの4名だけが俗名だったのか?
      裏面には先祖代々之精霊として6名が
         道本禅定門・智岳慶林信尼・釈浄玄・観山勇喜信士・智光妙恵信女・如雪童子
2022/9/8 追記
      裏面は大きく剥落し文字は失われました。

B-8  その右側の墓石は
   表面 「執行主計大伴忠尚●」    裏面 文化九年壬申十月廿三日(1812)  ●勢院孤峰●●●●
   最初の4文字は苗字ではなく、役職です。経理の役人をしていたのでしょう。
   シンプルではありますが、花崗岩を使い、文字は深く彫り、家紋は浮き出しています。
   手間と費用がかかっているのです。経理役人なのに・・・
   左側面に 肥州 とあります。肥前か肥後のどちらかの出身で、藩の大坂蔵屋敷に勤務していたのでしょう。
   なぜ故郷に葬らなかったのか?イラヌ妄想をそそられます。イカン・・・

B-10  左端は  中村氏清  寛文12年6月10日(1661) のものです。2番目に古いかも。
   竿石の大きさの割に台座が小さすぎます。


B-12  右端の墓の正面には 佐渡一谷妙照寺九五祖日遷聖人
             享保5年(1720)8月
        裏面には 南無妙法蓮華経 親中[死+心]
      裏面の内容から南濱では数少ない日蓮宗の墓だとわかります。それで検索すると
      新潟県佐渡に一谷いちのさわ妙照寺(日蓮宗)があります。その九五祖に日遷がいたのかどうか?
      もしそうなら、今度はなぜ南濱に墓が?という疑問がわきます。
      この妙照寺は日蓮が佐渡に流された時に滞在した寺で、日蓮宗では寺格の高いものとされています。
      ここからは推測(妄想)ですが、日遷は妙照寺の復興のための勧進をして全国を行脚していたのでは?
      そしてその途中の大阪で亡くなったのでは?
      妙照寺に問い合わせの手紙を送ったのですが何の返事もなく、ここで終了。

      [死+心]を[葬]だと見当をつけて異体字を探すと、こんな漢字が出てきました。
      ですが違います。
 
B-14  竿石がやけに短い墓です。よ~く調べる必要があります。

B-15  この墓は珍しい草書体です。 私には読めませ~ん。

B-16  竿石の頂部だけが残っています。無惨なことです。


B-17,18,19  中央3つは台座のみ残り、しかも大きく傾いています。
      整理時に適当に置いたのでしょう。

B-20   竿石はあるのですが判読できません。

B-21   涎掛けがかかっていることから、以前は地蔵が見えていたのでしょう。剥落が進んでまったくわかりません。
     右側面には 元文三 と読めます。1738年


右から
B-21
B-22   台座がなく竿石のみが倒れています。
     正面には  順了 了誓 尼妙●まで読めます。

B-23   台座には正方形の竿石の痕跡がありますが、この石は台座なのでしょうか?穴の加工がありません。
     もちろん後ろに転倒しているネギ坊主状の竿石が乗っていたわけはありません。
     竿石正面には  阿闍梨大歓 大和尚位 とあります。 阿闍梨は真言宗での高僧の呼び名の1つです。
                               基昌庵は禅寺なので大歓は別の寺にいたのです。


右から
B-24   竿石の下半分が剥落しています。
     正面上部  圓誉智空
     花崗岩の台座と少し斜めになっており、元の組み合わせではないようです。

B-25   横にして置かれている竿石はB-24と同じく下半分の風化が激しいです。
     台座正面  石野
B-26   正面    宮瀬先祖代々墓
     裏面    大正十二年六月建之
     この墓地では比較的新しいのですがそれでも1923年ですから91年前。祀る人がいなくなっても上思議ではありません。